次の音は、思わぬところに埋まっている。

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正体不明の非トマソン体 

『正体不明』という写真集を買った。著者は、トマソンでおなじみ赤瀬川原平さん。ちなみにこの前『超芸術トマソン』の文庫版も買った。そっちは本当にトマソンの本なんだけど、『正体不明』はトマソンではない、非トマソンの写真集。路上観察のさいに目にとまったものを撮ったものが中心のようで、なんともカテゴライズしにくい写真集。見る人によってはちっとも面白くないかもしれないけど、このブログで出してるような写真に惹かれるなら、結構気に入るかも。ちなみに続編も出てます。


さてこの写真集『正体不明』にはミニコラムみたいなものがついてて、その一つ「路的なもの」に、わが意を得たりみたいな文章があった。

たとえば旅行する。有名な観光地の場合、風光明媚である。だからみんな写真を撮るんだけど、あれは美的というタテマエを頼りに撮っているんじゃないだろうか。つまり頭で撮っているわけで、感覚は眠っているんじゃないだろうか。
(中略)
シャッターにかけた指先に、義理を感じてしまうのだ。義理でカメラを向けているけど、特に面白いわけじゃない。路的露出計の針はぜんぜん振れていない。(『正体不明』 pp.90-91)


「路的」というのは、路上観察的にみて面白いものをいっていて、ここでは「美的」と対比されている。美的はタテマエで、路的がホンネだという。それで、感覚的に面白いと思える路的なものを撮り出してからは、美的なタテマエに対して、カメラは向けるけどシャッターを切らなくなったという。


義理というのはとても適切な言葉だ。おれも景勝地にちっとも興味がないが、一応写真には撮ると思う。その意味合いとしては、みんなが撮ってるからまあおれも、というのもあるし、純粋に写真(構図など)の練習をする題材としても撮る。あと記録用途だ。それが美しいから撮るんじゃなくて、義理だ。そうは感じていたけど、義理という言葉を当てはめたことがなかった。非常にしっくりくる言葉だ。


ちなみに『超芸術トマソン』の方には、こんな文章があった。

 最近あちこちからトマソンの報告を受けて思うことは、その胸騒ぎの欠落しているものが多いということ。何枚か写真を見せられて、説明を聞くと、なるほど、あれこれとトマソン的条件を満たしてはいる。で、そうだねえと仕方なく相槌を打ったりしているのだけど、いくら見ていても胸騒ぎなんてぜんぜんしない。
 これは困る。基本が間違っていると思う。超芸術というものの存在を説明するためには、それが成立するいろいろな条件を提示しなければならなかったのだけど、じゃあその条件に合えばすべて超芸術として合格かというと、やはりそういったものでもないと思うのである。(『超芸術トマソン』p.182)


芸術に対する態度として、感覚を重視するべきという当たり前のことを、たまに忘れてしまいそうになる。惰性で、美的なもの、芸術っぽいものに対して「これは芸術だねえ」だなんていってる場合じゃない。芸術かどうか、トマソンかどうかなんてどうでもよくなってしまうような、強い胸騒ぎを呼び起こすものを見ないと、聞かないと。感覚が磨耗したらもう終わりだ。ボーっとしてる場合じゃねえ。路上を見ろ。


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